阿智村 なみあい-namiai-

石仏・史跡

室町時代末期に設立されたと推定される鎌倉大草紙である。
そのいわれは恩田川、治部坂川の波音高い渓流が合わさり村の要地を作っているから波合村と称するようになったとも
戦国時代以前から浪合村が重要な通路にあり人馬の往来で賑わった宿場で
多くの家並が連なりあっていたことにより並合村と呼び書かれたものともいわれている。
村の呼称が土地の相をよくとらえているように本村が交通の要衝な地であるが故に
幾多の歴史や伝説を生み数多くの古文化財が残る史跡の村として今日がある。

尹良親王

尹良

尹良親王は後醍醐天皇(在位1318~1338)の第8皇子宗良親王の皇子であり。南北朝の争乱の最中、南朝の勢力挽回に力を注ぎ、度重なる戦いの後、浪合で亡くなられたとされています。浪合では、尹良親王が戦い亡くなったといわれている”矢越、宮本、宮ノ原”などが地名として今でも残っております。

 

浪合神社

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浪合小学校から宮ノ原へと向かう石段を登り、杉並木の参道を通り抜けると浪合神社があります。宮ノ原で戦死した、尹良親王の霊を祀るために建てられたといわれています。明治42年までは尹良親王だけが祀られており親王神社と呼ばれていましたが、神社の町村一社制が進められ、村内にあった八幡社と諏訪社も合わせて祀り、浪合神社と名前が変わったとされています。現在は尹良大神と諏訪大明神と八幡大神が浪合神社の祭神として祀られています。春秋には浪合小学校にて弔いの祭りが今でも行われております。

〒395-0501 長野県下伊那郡 阿智村浪合宮ノ原581
駐車場:有り

参道-浪合神社-

参道

こめんと

〒395-0501 長野県下伊那郡 阿智村浪合宮ノ原581
駐車場:有り

慈念和尚

日本の剣道の創始者と知られている人物。京都や鎌倉、九州の寺を巡って剣術や兵法の修行をされています。慈念が伝授した剣術は「念流」と呼ばれ、剣道の諸流の源であるといわれています。晩年を浪合で過ごし、摩利支天を本尊とし、長福寺を建立しました。現在は、春秋にある尹良親王を弔う祭りにて村人が、慈念和尚を讃える湛える念流太鼓を奉納しています。

念流山-摩利支天-

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阿智村との境にある念流山の山頂に、摩利支天の祠があります。この位置は、長福寺の奥の院にあたり、武道の護り神とされる摩利支天が、慈念の尊崇を受けていたことが想像できます。この祠は応永15年(1408)に建立され、寛政8年(1796)が再建されたことが、祠の左面の文字からうかがえます。祠の再建にあたっては2体の御神体が作られ、1体は浪合村に、もう1体は馬庭村(群馬県多野郡吉井町)の道場の脇に立てられた、摩利支天社に納められたということです。

〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合568-74

駐車場:無し

摩崖仏-お薬師様-

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磨崖仏とは、自然の岸壁に掘られた仏像のこといいます。昔、この磨崖仏は近くから硫黄を含んだ水がわき出ていて、この水を飲むと病気が治るといわれていました。今では、深沢沿いの道を通って磨崖仏まで行きますが、昔は矢越を通ってお参りに行く参道が開かれておりました。この参道は、雨が降るとよく土砂崩れを起こしたそうで、ある時の大水で洞が抜けてこの付近を埋めてしまい、それ以来、硫黄を含んだ水が出なくなってしまいました。この時にできた洞は、今でもぬけ洞として残されています。病気や怪我を治す水はお薬師様のご利益であると考え信仰していた人々が、毎年4月28日に例祭を行ってきましたが、最近では上半掘地区の人々が毎年4月29日に例祭を行っております。

 

中馬街道と波合宿

中馬街道

長野県は、五街道の中で一番長い中山道が、下諏訪~木曾谷を通っていました。その脇街道として、一般の人々に利用されていた伊那往還(三州街道)が浪合を通っていました。伊那往還は「中馬街道」と呼ばれ物資輸送のお担い手であった中馬が、頻繁に往来していました。

ここ、浪合宿は寒原・治部坂の2つの大きな峠に挟まれた位置であり、行き交う人々が泊まったり休んだりする宿場・馬つぎ場として大変賑わっていたとされています。その昔、並合とも呼ばれていた浪合。それは家並が軒を重ねて合って賑わっていたことに由来するとも、中馬街道を通る人馬が並びあったからともいわれています。

 

波合関所跡

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戦国時代の天分23年(1554)に、伊那地方を支配下に置いた武田信玄は、東海地方への進出を画策し、伊那往還を軍用道路として整備していきました。その最中で、南信の豪族たちの動きを監視するために、6つの難所を置きました。その一つが波合関所でした。

〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合1118
駐車場:無し

 

武田信玄の狼煙台

のろしだい

蛇峠山の山頂に、武田軍によって築かれたと伝えられる狼煙台の跡があります。武田信玄は、この狼煙台による情報網を自分の領地の至る所に張り巡らせ、敵の動きを素早く知ることができたといわれています。

〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合1192
駐車場:有り

 

治部坂遺跡

治部坂遺跡

今から約1万5千年前頃、旧石器時代(後期)のものだとされています。昭和32年頃から発掘調査が始められ、細粒された遺物の研究結果から、治部坂遺跡は旧石器時代の遺跡であることが明らかにされたのです。現在では治部坂高原公園とされれんげつつじや季節の自然や星空観望の地として人々を楽しませてくれています。

〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合1192
駐車場:有り

近藤治部の碑

近藤治部の碑

豊明史によると近藤治部重高は、元徳2年(1329)2月沓掛城で生まれ、興国6年(1345)宗良親王を信農より沓掛城に迎えて後、駿河に入り忠勤を尽くし、正平7年(1352)宗良親王に従って武蔵の国小手指原に戦った。弘和2年(1382)3月24日尹良親王を助けてこの地で戦死した。浪合の治部坂の地名は近藤治部の名をとどめたものという。

〒395-0501 長野県下伊那郡阿智村浪合1192
駐車場:有り

参考資料:なみあい郷土のすがた、浪合村の史跡

画像提供元:浪合村の史跡(千葉一悳氏)